マウイ島の山火事で灼けただれた街の風景が、ウクライナ空爆の街にダブって見えます。
もはや山火事というイメージを越えた劫火(ごうか)。
なぜ山火事が起きたか?という点をめぐって、SNSでは例によって極秘のレーザービームや新種の爆弾など、人為的な陰謀とする論調が跋扈しているようです。もうこの空間は反射的に誰かのせいにする人間たちが密集する、きわめて異常な生態系だと見極めるしかないようです。そして、考えることを放棄した人ほど声が大きい。
しかし「なぜ」という疑問詞には欠点があります。
答える側が、回答を好きなように用意できるのです。
たとえば「なぜ花は咲くの?」と子供に訊かれたらどうですか?
まあ、それなどは他愛ない答えでいいのですが、大人同士ではそうはいきません。
今の山火事にしても同様ですね。
「このような火事がなぜ?」とワイドショー的に問いを立てれば、いくらでも答えはありです。
それが「なぜ」という疑問詞の落とし穴なのです。
自然科学に「なぜ?」という問いかけはない、というのはゲーテの言葉です。あるいは夏目漱石も同様のことを言っているらしい。ゲーテの時代にしても漱石の時代にしても、まず学問とは基礎に哲学があって、それは物事の考え方についてしっかり修めるものでしたから、理系だの文系だのといった腑分けはずっと枝葉のことです。人間を含めた万物世界をどう見るか、解釈するか、それが学問の根幹。ところがいまは学問を納めるべき教育の場では、哲学などはすっ飛ばして、できるだけ若いうちから専門分野に踏み込ませるのが潮流ですね。逆にそうでもしないと優秀なエンジニアは育たないでしょう。それはしかし、若いうちだけに使用期間の限られた人材(部品)を育成することになってしまうわけです。
そこでゲーテは「なぜ・why」ではなくて「どのようにして・How」と疑問詞を使うべきとも言っています。
後者の疑問詞は理詰めで考えます。現状を観察し、そのプロセスをひとつづつ類推し、検証しながら遡っていくわけですから、いきなり陰謀だの真実だのと飛躍する余地はありません。
話を山火事に戻します。
本日のN.Y.Times電子版には「外部からの植物の導入が、どのようにして山火事の猛火につながったか」
How Invasive Plants Caused the Maui Fires to Rage
という記事が出ています(有料サイトかもしれません)。
記事のタイトルがまさにHowで始まっています。
要旨はつまり:
ハワイでは、本来の多様な植生の森を切り開いてサトウキビのプランテーション(モノカルチャー)が始まった。
やがてサトウキビ産業が衰退し、空いた農地を海外から導入されたパンパスグラスなどの草本類が占めるようになった。
雨季には膨大に成長をするが、それが乾季に枯れると膨大な燃材になる。
日本の野焼きは、村人が大勢で風を見ながら草を焼くものですが、スケールのもっと大きくて野放図な大火になってしまったのでしょう。火はナマモノです。小さな焚火ですら勢いがつくと本当に恐ろしい。
今回の山火事は他人ごとではなくて、今の里山も、辿っている道筋に共通するものがあります。
同じものばかりを植えて単一化し、生態的にも土壌的にもバランスが崩れて脆弱になったところが、あるとき閾値を超えて爆発的なエネルギーを噴き出す。それは里山の森も農地も同様です。
人間の関与がまったくない自然災害というものは、いまの地球上ではありえません。すべての災害には人為も関与しています。その因果は、一つの原因にひとつの結果というような単純なものでないから、複雑なHowを見極めるのは大変です。でもそれを見つめることなく、考えることを放棄している限り、また同じことが続くわけです。
いま日本に近づきつつある台風7号そしてこの先の秋の空、よくよく見ながら、備えていきましょう。
9月24日(日)の「街ではじめる大地の再生」でも、そうした話になるかと思います。どうぞご参加ください。